PWEP Okayama, 2 Agustus 2009

Seminggu sebelum acara, General Manager WGTT, mas Dodik kirim email, jumlah peserta PWEP (Pelatihan Kewirausahaan & Edukasi Perbankan) yang akan diadakan di Okayama City kali ini membludak hingga mencapai 150-an orang padahal prediksi awal hanya sekitar 120-an. Sebagai akibatnya lokasi seminar terpaksa dipindahkan ke universitas Okayama yg dengan baik hati meminjamkan sebuah ruangan dengan kapasitas 150-an… Read more PWEP Okayama, 2 Agustus 2009

カナッア (qana’ah)とは

もしも、あなたの人生で全ての欲しいものが手に入れられならば、本当に満足はできますか?高給与の仕事、いい肩書き、お城の様なお家、外国製の高級車。本当に満足できますか?その答えはほぼ百パーセントNOである。なぜならば、人間は自然に自分よりもっと裕福なひとに目をつけるからである。ムハンマド預言者『彼に平安であれ』はこの様な言葉を告げた(日本語の直訳): ”人間は純金のひとつの山を持っていれば、二つ目の山を求める。二つの山を持っていれば、三つ目の純金の山を求めつつける。人間は『土』が与えられるまで止まらぬ(「土が与えられる」の意味は土に埋葬いわゆる亡くなる)” これは他人事ではない、私もそうである。自分の人生を振り返ってみませんか?初めて車を買ったとき、あまりお金がなくてぼろぼろな中古車で満足できたけど、友人が新車を購入したときなぜか焼餅になって、ついにローンに手を出した。しかし、何年経ったらその新車は古く見えてまた新しい車に換えたい。お金ちゃんとあれば別に問題ないけど、お金がないのに無理やりローンを組んで、日夜も知らずアルバイトで頑張ってローンを支払い続ける。こんな人生はおかしくないと思いませんか?いい品物を求め続けるのは決して悪いことでもないが、周りの目を気になるばっかりで自分の能を超える無理やりのはいいことではない。自分意欲を満たすためには、いつまでも終わらない。だからどうするの?一番いいのは、できる限りで頑張るけど、今の自分のあり方が神様に感謝して人生を送ること。ムハンマド預言者『彼に平安であれ』の言葉なら、つぎの様である。 ”Undzur ilaa man aspala minkum wa laa tandzur ila man huwa fawqakum fahuwa ajdaru an laa tazdaruu ni’matallahi alaekum (ウンズル イラア マン アスパラ ミンクム ワラア タンズル イラア マン フワ ファウカクム ファフワ アジュダル アンラア タズダルウ 二ッマタッラアヒ アラエクム)” 訳 : ”あなたより裕福な人ではなく、あなたより不幸なひとに目をつけろ。そうすれば、あなたに与えられたALLAH神様の裕福さは軽く見えぬ(もっと感謝できる)” あなたは高級者に乗れば、軽自動車に乗っている人々を見て、自分はとても運がいいと分かる。 あなたは軽自動車に乗れば、ぼろぼろな中古車に乗る人々を目をつけろ、そうすれば自分は恵まれることは分かってくる。 あなたは中古車にしか乗れない場合、周りよく見ろ、50cc原付しか乗れないひとが多い。それを見て感謝しろ。 原付しか乗れないあなたは、チャリンコしか乗れないひとは多いよ、だからあなた自身はまだまし。 チャリンコしか乗れないひとは、自分よりまだ不幸なひとが多い。寝たきりなり、動くさえできないひとはとても多い、だから健康に感謝しろ。 これがアラビア語で 『カナッア』 という。要するに、自分に満足感を感じさせることによって、自分のあり方を神様に感謝できる。生活は贅沢ではなくても、こころが豊かであるから毎日の生活は穏やかでいつも満喫できる。気持ちの設定は自分次第!

雨の音

僕は生まれ育ちが小さな村だった。 小さい頃は、 実家は柱が高くて木造で伝統的な家屋だった。柱の高さは3メータぐらいで、 下の部分は我が家の養鶏場。 100匹ぐらいの鶏を飼っているため、 朝の五時ぐらいから鶏の声で賑やかだった。 しかも、実家は村のモスクの真横にあるから、 スブ(早朝)のお祈りの掛け声が五時前に流れ来ると、 鶏も起きてしまってその掛け声に鳴り返す。 昔は、水道はまだ流れてないため、朝の水浴びは家の後ろにある井戸から水を上げ浴槽に入れて、 それから水浴びができる。今頃だったら雨が頻繁に来るから、井戸水が結構溜まって家族全員で使える。しかし、乾期が訪れると、井戸水が乾いて、 朝と夕方の水浴びは家から離れている井戸に行かなくてはならない。実家の西側100メータぐらい国道があって、その道を渡って昔家畜の餌を生産する会社CHARGILL社の地区内にある井戸によく行った。10分ぐらいで着くから、早く行ったら学校は遅刻はしない。 しかし、乾期がもっと長くなると、CHARGILLの井戸の水も減って、 入らせてくれなくなる。その会社は生産のため水も使うから、 やはり少なくなるときには分けてくれない。そうしたら、やむ得なく実家から1キロぐらい離れている井戸に行かなくてはならない。 朝スブ礼拝が終了したら、 早速水浴びに行って6時ぐらいに家に戻らないと学校は遅刻する。水を浴びたのに、帰りに家で使うための水を肩に担いで汗がビショビショで帰宅ことも珍しいことではない。 多分その様な経験があるから、僕は雨の音が大好きになる。特に寝る前に雨の音がしたら、モーザートやビートヴェンの音楽よりもすごくいい響きになる。雨の音を聴けば、「明日は井戸水が溜まる、遠く水浴びに行かなくてもよい」という安心感がある。その安心感はこの国、日本にいても変わらぬものだ。 今は、実家で水道もあるし、ポンプで75メーターの地下から水を吸引ができ、 水に困ることはほとんどないが、 小さい頃で学んだ水の大切さは今も忘れない。 豊かな生活で暮らしている我々は、 どこかで水で困っている人々はきっと居ると分からなくてはならない。 今夜の様な雨の音が聞こえる度に、 私は明日水が困らなくても暮らしができると、ALLAH神様にいつも感謝している。 あなたは、水のことは神様に感謝していますか?