イスラムって?

「アリフさんはイスラム教徒ですね」といきなり訊かれた。あの時は阪神高速道路を走って大阪から神戸に向かったときだった。乗ったトラックは隅々まで西東さんといういい人からもらった家具でいっぱいだった。訊いたのは「中嶋」という赤帽の運転手だった。 「そうですけど」と僕は答えた。「どうかしましたか?」訊き返した。 「いや、何でもなりけど。いつもインドネシアの留学生の皆さんを見て、みんなイスラム教徒かな」と独り言のような話し方で答えた。 「ああ、そうですか」と僕は頷いた。 「イスラムって、シア派ともうひとつはなんだったっけ」関西弁の訛りで話を再開した。 そこからイスラムについて話はポートアイランドまでの旅に話題になった。あまりにも気になったようので、バンバン訊き放題中嶋さんだった。僕はひとつずつ答えた。 「イスラムは、基本的にはひとつです。私たちは、シア派であれ、スンニ派であれ、神様はALLAHと預言者はMUHAMMAD『彼に平安であれ』認めれば、兄弟だと思っている。派というのは、基本的にクルアン(Al Qur’an)とハディツと言ってムハンマド預言者の言葉の解釈が異なり、生じたものだ。つまり、お祈り方法は同じが、細かい部分はどこが違うだけだ。ところで、テレビやメディアにいつも取り上げられたシア派とスンニ派の対立は、よく見ればわかると思うが、ほとんど政治の関係する目的で発生した。イランなり、イラクなり、自分や自分の政権を継続するために宗教を使用した。もちろん、全部ではないが、多くのはそのためだと僕は個人的に思う。」 「なるほど、そういえばそかもしれないな」と中嶋さんが頷いた。「あとはさぁ、キリスト教ってイスラム教と同じ宗教だったってどういうことなの?」 「私はpesantrenと言って、イスラム教の神学校を卒業したが、すこし宗教の歴史を勉強してきた。私が知っている限りでは、元々キリスト教だけではなく、ユダヤ教でもイスラム教の教えは同じだった。異なるのはその教えを伝えた預言者だけだった。つまり、ユダヤ教でもキリスト教でも、イスラム教でも、神様はALLAHであること。それだけではなく、この全世界の神様はALLAHしかいないと私たちは信じている。クルアン聖書によって人間の歴史は初めての人間ADAMというひとから始まった。不思議なのは、アダムの存在がユダヤとキリスト教も認めた。 アダムのあとに様々な預言者もいた。その最後の三人はユダヤ教の預言者モセス(Musa a.s)、そして、キリスト教の預言者イェス(Isa a.s)、最後にイスラム教の預言者Muhammad SAWであった。だから、私たちもイェス預言者のことをすごく尊敬している。しかし、イェスは神様の子供やイェス自身がALLAH神様とキリスト教徒が信じるようなことは、猛反対だ。まさか神様は人間の形をするのはまずありえないし、bible聖書を調べてもイェスは自分が神様と宣言したことはない。なんぼさがしても、見つかることはないんだ。それでなぜキリスト教は”イェス”が神様として信じるようになったかということは、様々な説がある。とにかく、キリスト教はもう不純粋な教えであるから、結局神様はイスラム教を下さった。つまり、簡単に言えばイスラム教はキリスト教の改善版である。ユダヤ教とキリスト教の関係も同じようなパターンである。当然、今まで自分が信じる宗教を改善されるなんて受け入れる教徒は少なかった。しかも、以前の預言者はいつもイスラエル俗から来たのに、なぜかイスラムだけがアラビア俗から出てきた。イスラムに対するもっともっとイスラエル俗は反対だった。もともと、bible聖書はどこの言葉で書かれてあるとわかりますか」と中嶋さんに聞いた。 「や、わからんな。英語じゃないのか」 「と思ってしまいますよね。今現在聖書は日本語でもありますよね。実は聖書といえばイェスが話せる言葉で書いているはずじゃないんですか?だって、その聖書を唱えたのはイェスだから。今キリスト教徒が持っている聖書はもうオリジナル聖書ではない。なぜかというと、ほかの言語に訳されたからです。逆で考えましょう、いくら日本語が上手でも、アメリカ人に ”いただきます” という言葉は英語にしてくれ!と言われたら絶対に100%パーセントのぴったりの表現ができないと思います。言語というのはただの単語を並ぶだけではない、その単語の並び方等の背景に文化や考え方様々なことがあります。ですから、オリジナル言語から訳されてしまった聖書はもう聖なる書ではありません。人間の言葉が入ってしまうから、書いた人の感情等によって十分な変更あり得ます。他方、クルアンでは1400年前から、そのままアラビア語で一切表現や意味などがかわりません。」 「なるほど」中嶋さんが呟いた。  づづく。。。。

わからん。

Tenggorokanku kering Tatapku nanar Fikirku kosong これで僕の限界か?わからん。 小さいの時に両親以外大勢な親戚に囲まれて育てられた僕は、結婚する前に子育てに関して全然心配は無かった。可愛い我子と遊んだり毎日の楽しい生活を送る家庭生活しか想像に無かったのです。両親を見ればいつもニコニコして楽しい雰囲気だったし、親にはめったに叱られたことも無かった。本当に一回二回ぐらい叱られたことがあると記憶に残っている。家を騒がせたのは兄弟喧嘩だけだったかもしれない。僕は四人兄弟で一人の男の子として、姉に負ける気はもちろん無かったです。姉達は年上としてプライドがあったから僕にも負けられない。だから、小さな差何ことでも喧嘩になった。 父はきり易いが、気にならないことがあったらすぐ家を出て友達と遊んでたので、あまり母と喧嘩姿は見ていなっかた。しかも、母は空気を読め父が限界の我慢になったら何らかの手口で家の雰囲気を変えた。家はいつも穏やかで、子育てなんか苦労が勝手に無かったと思ったの。 しかし僕は今住んでいるのが我家族しかない、子育ては全て私と妻である。学生でありながら、アルバイトは四つもやっているし、その中に二つのバイトは家でやります。夫婦関係は別にいいけど、子供に悩んでいる。今二人の子がいて、4ヶ月の赤ちゃんともうすぐ2歳のお嬢ちゃん。上の子は今成長の期であり、いつも可愛いことをやっていたが、丁度今僕は大変な時期である。卒論も準備しなければならないし、バイトもしなきゃ。後はボランティアもいくつか参加しなければならないし、本当に時間の使い方は上手くしないといけない。 家でアルバイトをするのはとても楽ですが、子供が泣いたらどうしてもほったらかしてはいけない。だから、仕事で頭が回らないときがあって、子供が泣いて、ほんとに苛々させられた。妻は分かってくれるけど、たまには彼女も限界がくる。問題のは、お互いに限界が来るときに、子供は可哀想になった。子供のせいでもないのに、彼らに叱ったり大きな叫び声を聞かせたりするのは、自分の心も痛い。悪いことをしたと分かっているけど、どうしよも無いな。ALLAH神様に許されるように祈るだけ、後は叱ったと子供を抱きしめて「ごめんね」言うしかない。 もうすぐラマダン、来週の火曜日の夜にラマダンの1日を決定し、水曜日か木曜日か断食の月が始まるんだ。本当にドキドキして、すごい期待しています。ムハンマド預言者によると、ラマダンには罪を許されALLAH神様からの恩恵が豊富な一月である。だから、期待している。そして、今年は人生で32回目のラマダンであるから、本当に多く礼拝ができるかどうか、クルアンは何章読めつくすか、興奮しているぐらいドキドキしちゃいます。ラマダンの雰囲気で子育ての苦労は削られるように頑張るわ。 ビスミッラフマアニッラヒーム (ALLAH神様の名前で始めます)。。。 独り言ですけど、意味が解らなかったら御免なさい。 🙂

年なんて。。。

今夜前部屋はちょっと時間をかけて掃除した。大分前から入ってきた書類を処理したところ、何件か気になりました。なんと、2年前から届いた書類なんだ。やはり、時間ははやいな、と瞬間的に思い込んでしまった。今年は三年目の大学で、来年は四年生になるんだ。 ある時は自分が流れた時間に迷い込んでしまって、自分の計画が分からなくなったり将来のことが不安になりました。しかし、回り見ればやはり一人じゃない、みんなも一緒です。 人生ってナンだろう。まじめで夢を追いかけて、つかむことなの?そうでは足りないよね。だっていくら夢を叶えても人間なんていつも新しい夢を作ってしまう。だったら、無限だ。 我々って何のために生きていくのとあるカンボジアの友達に聞かれたことがある。簡単な質問ですが、複雑な答ですよね。。。。 僕らはイスラム教徒として、その質問は答えられますが、日本人の皆さんはどうでしょうね。ちなみに、あなたの答は?教えてくださいね :)